菊池 和彦(自交総連書記次長)
(2006.4.22 タクシー運転免許法制化プロジェクト報告 付録)
自交総連タクシー運転免許法制化プロジェクトチームは、調査作業の一環として、2006年3月21日から27日までイギリスのロンドンを訪問してタクシーに関する調査を行った(資料1参照)。
ロンドンのタクシー運転者試験は、難かしいことで知られ、そのためにロンドンでは、タクシー台数の数量規制が実施されていないにもかかわらず、運転者及び車両数の無秩序な増大が引き起こされることなく、運転者の高い資質が保たれている。
調査団は、ロンドンにおける運転免許試験の具体的内容をできるだけ詳しく知り、それがどのような役割を果たしているのか、また、ロンドンやイギリスにおけるタクシー事業のあり方、規制のあり方を調べることに努めた。
ロンドンのタクシーを特徴づけているのは、なんといっても極めて厳しいタクシー運転免許制度の存在である。「ノリッジ」試験(知識という意味)と呼ばれるこのタクシー運転免許試験に合格するためには、平均3年もの受験期間が必要である。今回詳細を調べたところ、聞きしに勝る試験の難しさに改めて驚きを感じた。
(1) ノリッジ試験の具体的内容
受験学校で勉強する受験生 |
(2) 試験が果たしている役割
ロンドンのタクシー運転免許試験は、その難しさゆえに、次のような重要な役割を果たしている。
一つは、タクシー運転者の質が極めて高い水準に保たれているということである。運転者は自らの高い専門性に自信を持ち、プロとしてのプライドを持っている。タクシードライバーの協会であるLTDAのトーマス議長は「金で買えないコミットメント(義務・責任感・献身性というような意味)が大切」と表現していたが、ロンドンのタクシー運転者はそのような価値をもっているということである。
ロンドンには「ミニキャブ」といわれる電話で予約した客だけを乗せることができるタクシー類似の車(正式にはプライベート・ハイヤーといわれるものの一種)がある。このミニキャブには、もともと何の規制もなく誰でも自由に営業できた。運転者は出入りが激しく、アルバイトのような実態であった。運転者による犯罪、とくに婦女暴行事件の多発で、1998年に法律ができて規制が行われるようになった。今年からは運転者の免許も完全に義務化され試験が行われることになっている。
このミニキャブの例と対照的に、タクシーでは、一旦運転者になれば生涯にわたって長く続ける者がほとんどで、犯罪行為はほとんどなく、社会的にも尊敬を集める職業となっている。使用者に拘束されることなく自由に働けるという点で一種の憧れを抱かれる存在で、最近では、高名な核物理学者が退官後に64歳でノリッジ試験に合格して話題になった例もあるそうだ。
家族との生活を大切にするために収入が多少下がるのを覚悟のうえで夜間や週末には働かないという者も、逆に割増運賃があり収入が増えるので夜間や週末に働くという者もいて、自分で働き方を選んでいる。
タクシー運転者の収入は、すべて自営業者のためはっきりした統計がない。一般的な労働者の収入よりは高いが、特別に高額というわけでもない。普通の労働者のように平日の9時から5時までの労働なら、むしろ安いのではないかという話も聞いた。しかし、金で買えないプライドを誰もが保持して、それが乗客への対応にも反映しているのである。
もう一つは、志望者のうち70%は途中であきらめるといわれるように、必然的に合格者数が絞られるために、運転者や車両の数が急増することがないということである。1988年から97年までの10年間の合格者は7485人、年平均750人ほどである。合格の基準を下げることは考えられていない。
現在のタクシードライバー数は2万5000人ほどで2000年頃までは徐々に増加(1970年には1万3000人だった)していたが、この数年はほとんど増減がない。
ロンドンのタクシーはすべて個人タクシーで、ほとんどのドライバーが1人で1台の車両を保有していて、現在の車両数は2万2000台ほどである。この数も、この数年はほとんど増減がない。
このためロンドンでは、数量規制がないにもかかわらず、需要を大きく超えた供給過剰状態に至るまでの無秩序な増加は起こっておらず、過当競争からくるドライバーの収入の低下や運賃値下げ競争、過労運転に至る長時間労働化のような事態は起きていない。
広いタクシー専用車両の客室 |
(1) 高い参入コストとしての免許試験
厳しい運転免許試験がタクシーサービスの質を担保するということは、難しい試験を突破した者だから質が高いということだけでなく、難しい試験が高額な車両価格などのコストと合わせて、タクシー市場に参入する際の障壁となっていて、市場の調整機能の不備を補完する役割を果たしているという側面もある。
一般に、市場では、自由な競争を通じて、儲かるところには参入が起き、やがて儲からなくなれば参入は止まり、退出が起こる。それこそが、市場のもつ調整機能とされるが、しかし、その参入や退出があまりに急激で劇的であれば、さまざまな弊害を引きおこす。とりわけ、タクシーの場合には、供給過剰や不足が起こるたびに、運転者の質――ひいては交通機関としての安全性が変動したのでは、乗客は安心して利用することができない。
ロンドンでは、運転免許試験や車両コストという参入の障壁が高いため、容易にはタクシー市場への流入が起こらない。ロンドンでも、好況でタクシーが足りなければ売上げが増え、儲かる市場だと思われればドライバー希望者が増えるし、不況でタクシーが余れば売上げは伸びなくなり、魅力が薄れてドライバー希望者が減る。労働市場で失業者が増えれば、ドライバー希望者が増えることもある。
その意味では市場の要請が需給に反映されているのであるが、参入コストの高さが、各種の弊害を引き起こすほどの急激な増加や破滅的な過当競争になることを抑制しているのである。
(2) 運賃政策におけるインセンティブ
逆に市場のもつ機能を積極的に活用していると思える点が運賃政策にみられる。
運賃は基本的に物価と連動して毎年改定されている。改定率は、コスト計算に基づいて、PCOとタクシー業界代表としてのT&G、LTDA3者の委員会で合議、査定されて決まる。決まった改定率のなかで、具体的にどの部分の運賃を上げるかについて、近年では、タクシーに乗りにくいという声がある夜間や週末の割増率を高めるようにしているということだ。「割のいい仕事ができる」状態とすることで、夜や週末に稼動しようという運転者を増やそうというわけである。
局所的・一時的に需要が増大する地点・時間には「タクシーシェア(相乗り)」という手法も採られている。空港や駅、週末の劇場がはねる時間などに、乗り場に整理員を配置して、例えば通常15ポンド程度かかるところまでを1人7.5ポンドで相乗りさせて輸送し、需要をさばいている。運転者は、1人を乗せるよりも収入が増え、乗客は運賃が安く待ち時間が少なくなる。
LTDAでは、タクシーが足りないという意見を言う人に対しては「どこに需要があるかはハンドルを握っているタクシードライバーだけが知っている」と答えていると話していたが、運賃割増などのインセンティブによって、市場に出ているドライバーに需給のミスマッチを解消する行動をうながす試みであろう。
(3) 日本のタクシーの場合
日本では、規制緩和で数量規制をはずしたにもかかわらず、運転免許試験は以前と変わらず比較的簡単なままにしておいた結果、本プロジェクト報告に述べられているように、タクシー市場への参入コストが非常に安いままである。車両も安いし、人件費も安く、しかも歩合給であるために過剰投資となっても企業の収益を圧迫しない。このことは、投下するコストに見合う利益が得られるかどうかという、本来は極めてシビアな事業者の経営判断を著しく鈍らせる結果となっている。その結果、タクシー市場では、供給過剰にもかかわらず市場の調整機能が働かず、さらに参入が続くという不自然な現象が起きているのである。
高い参入コストという意味での運転免許試験は、日本でのこの不自然な現象を補正する役割を期待できる。
運転者になるための高いコストは、法人タクシーが主流という日本独特のタクシー構造の中では、運転者を雇うための高いコストということになり、会社による労働者の使い捨て的な発想を許さない状況をつくることになる。
高い労働コストは、安売りや増車、あるいは最低賃金や労働基準法違反をも顧みない事業者が、その乱暴さゆえに市場で勝利を収めるという不合理を許さず、事業者に高いコストに見合う投資効果の冷静な分析を迫り、市場開拓のための創意工夫を促すであろう。
そうなってこそ、利用者・国民にとっても、労働者にとっても望ましい公正な市場競争が実現できるのである。
LTDA本部にて |